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大手家電メーカーに勤めていた両親が職場結婚し1986年に生まれました。
2歳の時に、父親の初めての転勤で大阪府門真市に引っ越しをしました。同じマンションの友達と一緒に門真市立門間小学校に入学。公園で遊んだりと楽しく過ごしました。
小学校3年生になる時に、再び父親が東京に転勤となりました。父親の実家のある群馬県高崎市に再度引っ越しをし、高崎市立中央小学校に転入しました。
ようやく群馬での生活にも慣れてきたと思った1年後の小学校4年生になる時、またまた父親の転勤で今度は海外、シンガポールに行くことになりました。シンガポールでは日本人小学校に通い、日本とほとんど変わらない教育を受けていました。最後の年、6年1組で出会った友達とは今でも連絡を取り合っています。
大阪では京阪電車が身近にありました。電車に乗る時はいつも運転席にかじりつき、珍しい列車が来るたびに写真を撮りに行きました。休みの度に何度も新幹線の車両基地に連れて行ってもらい、鉄道へのあこがれを強めていきました。そんなこともあって、この頃「将来は電車の運転士になりたい」という思いを持ちました。
今は電車に運転士になろうとは思ってはいませんが、電車で遠くに出かけるたびにワクワクする気持ちは持ち続けています。
小学校6年生頃に、母がダイアナ妃が亡くなった事を伝える新聞記事を読み悲しんでいる姿をおぼえています。自分でも新聞を読むようになり、社会のできごとを知れることにおもしろさを感じました。
シンガポールでは日本人学校に通い、日系のお店がたくさんあったので、日本とあまり変わらない生活を送ることもできました。ただ、それぞれのマンションには必ずプールが付いていて、毎日のようにプールで遊んでいました。
また街には、アジア太平洋戦争での戦争の傷跡が身近にありました。住んでいたアパートから5分ほど歩いた所で、戦争時、中国人の虐殺があったということを教えられました。当時のシンガポール日本人学校で独自の副読本がありそこに書いてありました。
また、街の中心部には「血債の塔」という慰霊塔があり、かつての戦争で日本軍に殺された方々の霊を慰める目的で建てられています。母親から「あれは日本軍がひどいことをしことを慰めるためのものなんだよ」と聞かされました。